登場人物
石井 十次
1865年05月05日〜1914年01月30日
宮崎県児湯郡高鍋町生まれ。「児童福祉の父」と呼ばれる。1882 年、岡山県甲種医学校に入学。1884 年、牧師・金森通倫より受洗。1887 年四国巡礼帰途の男児を預かったことが契機となり、岡山市門田屋敷三友寺で孤児救済事業を始める。1889 年医学への思いを断ち児童福祉・教育に専心する事を決意。1898 年、孤児院の子ども達と「音楽幻灯隊」を編成し、1903 年からは活動写真に変えて各地を公演。撮影した院内の生活風景を上映し寄付を募った。その映像は、日本初の自主ドキュメンタリー映画と言われている。1899 年大原孫三郎と出会い, 互いに影響を与え合い、資金面からの援助も得た。自らの故郷である宮崎県茶臼原の開拓に着手し、1912 年に「岡山孤児院分院茶臼原孤児院」を設立、孤児院の全移住を行った。石井の長女・友子は、大原美術館の基礎を築いた児島虎次郎と結婚。その息子・児島號一郎は石井の遺志を継ぎ「石井記念友愛社」を設立した。
尾上 松之助
1875年09月12日~1926年09月11日
岡山市生まれ。本名・中村鶴三。5 歳の時、生家の近くにあった岡山市中島の旭座で初舞台を踏む。14歳で巡業に出て旅役者となる。座主であった牧野省三に招かれ、京都千本座に出演。牧野が尾上を主演にした活動写真製作を始めると、その面白さが世間に広まり「目玉の松ちゃん」の愛称で人気を博した。牧野省三の息子、マキノ雅弘も子役として共演している。生涯に一千本以上の映画に主演した。1925 年、尾上は社会福祉事業資金として多額の私財を京都府に寄付し、その寄付金によって低所得者を対象とした住宅20 戸が建設された。これは「松之助出世長屋」と呼ばれた。その他に小学校にプールを寄付するなど、日本最初の映画スターであり平和を愛した社会福祉家でもあった。
内田 吐夢
1898年04月22日~1970年08月07日
岡山市生まれ。本名・内田常次郎。1920 年、横浜に大正活映の撮影スタジオができると毎日通い、俳優兼助監督などをして映画業界に関わっていく。1922 年に牧野教育映画に入社し『児島高徳』などに主演。尾上松之助の死をきっかけに俳優から監督への転身を決心する。1926年日活に入社し、喜劇や思想性の強い映画などを幅広く監督した。1945 年満州に渡り満州映画協会に在籍する。戦後も中国に残留することを選び東北電影の立ち上げに参加。1953 年10 月日本に帰国。翌年東映に入社。『血槍富士』で監督として復活。『宮本武蔵シリーズ』『大菩薩峠』『飢餓海峡』などを監督した。
大原 孫三郎
1880年07月28日~1943年01月18日
倉敷市生まれ。倉敷紡績を営む大原孝四郎の次男として生まれる。1897 年東京専門学校に入学するが、放蕩生活を送り中退。帰郷後、石井十次を知りその活動に感銘を受け、社会福祉事業に関心をもつこととなる。1901 年倉敷紡績に入社。1902 年には工場内に尋常小学校を設立。また学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。児島虎次郎もこの奨学生となる。1906 年倉敷紡績の社長に就任と同時に、工員の労働環境改善を図った。また、石井の孤児救済活動の資金面からの支援を続け、石井没後の1917 年には大阪に石井記念愛染園を創立し、近代的隣保事業を始めた。1930 年、児島虎次郎が収集してきた各国の美術品を収蔵する大原美術館を開館。
児島 虎次郎
1881年04月03日~1929年03月08日
高梁市生まれ。日本における印象派の代表的画家。1902 年東京美術学校西洋画家選科に入学。大原孫三郎設立の奨学生となる。1 歳年上の大原孫三郎と親交をもち経済的援助を受け続けた。1907 年、大原の紹介で石井十次が設立した岡山孤児院を訪れ、孤児院を題材に描いた「なさけの庭」が、東京府勧業博覧会で一等を受賞、宮内庁買い上げとなる。1913 年石井十次の長女、友子と結婚。孫三郎の依頼を受け、西洋絵画の買い付けと自らの絵画修業のためヨーロッパに3 回、中国・朝鮮半島には4 回赴く。その尽力が現在の大原美術館の質の高いコレクションを創り出した。
牧野 省三
1878年09月22日~1929年07月25日
京都市生まれ。京都の千本座を経営。横田永之助から日本劇の撮影を頼まれたのがきっかけとなり映画監督となる。岡山にある金光教本部に参った際、旅役者であった尾上松之助を見いだしたと伝えられている。松之助と200 本以上の時代劇を撮り人気を博した。後に日活を独立し教育映画などを制作。1925 年にはマキノ・プロダクションを設立し、若い脚本家や俳優などを起用し新たな時代劇を生み出した。内田吐夢や衣笠貞之助など多くの映画人を育てるなど、日本映画の父とよばれている。